3人のクライマーがヒマラヤ辺境地に旅立った
高柳 傑さん(右)
写真家。山岳写真家、故青野恭典氏に師事。アルパインからフリーまで行なうオールラウンダー。アラスカ、カナダ、フランス、ネパールなど海外でもクライミングを実践。
大石明弘さん(中)
静岡・清水でLPガスの販売を行なう大石燃料代表。その傍らライターとして登山雑誌に執筆。著書に『太陽のかけら ピオレドール クライマー谷口けいの青春の輝き』等。
鈴木啓紀さん(左)
パタゴニア日本支社勤務。幼少から親しんだ野鳥観察をきっかけに登山に興味を持つ。大学入学後に本格的なアルパインクライミングを始め世界の山々へ遠征を重ねる。
標高6,850mの頂へ
2024年10月29日。大石明弘、鈴木啓紀、高柳傑はネパール北東端に位置する標高6,850mのパンドラ山頂に立った。
「明るくなって見上げたら、意外に山頂は近くに見えて。これはもういけるなと、思ったんですけど、もう僕はかなり限界で。大石、先に行けよ(山頂を最初に踏めという意味)と鈴木がいってくれたものの無理で、ふたりの後を追っていく感じでした」
登頂前夜、約1,500mの垂壁を4日がかりで越えた3人は山頂直下でビバーク。標高6,500m付近で耐えて太陽を待った。大石は精根尽き「寒くて仮死状態だった」と自らを振り返る。登頂も大喜びというよりも安全に帰る、ただそれだけを思った。
序章、「パンドラの箱」が開く
パンドラはヒマラヤの辺境地にあり、決して有名な山ではない。この山に最初に注目したのはアルパインクライマーの谷口けいだった。偶然写真に写り込んでいた美しい角錐を成す山容に心を掴まれ、2015年に和田淳二とともに初登攀(当時は未踏峰と思われていた)に挑む。だが完登・登頂は叶わなかった。そして同年の冬、谷口はパンドラの“宿題”を残したまま、北海道大雪山系で帰らぬ人となる。
谷口と親しい間柄だった大石と鈴木は、和田の再挑戦への思いを汲みメンバーに名乗りを上げた。遠征を計画するもケガやコロナ禍、様々な要因で頓挫する。その間大石は谷口の生き様を一冊にまとめ上梓。世界的なクライマーである前に、多くの人に慕われていた人間・谷口けいの大きさを人一倍感じていた。
「けいさんの本を書いて、文字で物語を追体験したら、もう実際の行動としてもなぞるべきだろうと。書いているときから強く思うようになっていきました」
その後、諸事情で和田は離脱、パンドラを目指すメンバーは大石と鈴木のふたりになった。コロナ禍も落ち着き、ようやくパンドラ登攀への筋道が見えてきた2022年。ふたりは前哨戦としてアラスカにあるハンター(標高4,442m)北壁に向かった。このとき彼らの谷口への思いを含めた一連の登攀を映画にしたいという話が持ち上がり、同行したのが平賀淳だ。地球上の大自然を舞台に映像や写真で活躍しているカメラマンだった。
平賀は大石とも谷口とも気心が知れた旧知の仲。撮影クルーは、壁に挑む大石と鈴木を見送り麓の氷河から登攀する姿を狙った。数日後、北壁を完登し無事に下山。しかしそこに平賀の姿はない。クレバスに転落したと告げられた。青天の霹靂だった。
「平賀さんとは20年来の付き合い。あらゆる辺境でカメラを回す彼に僕は刺激を受けていて、登山を続けてきたところもあります。本当だったらアラスカの後、このパンドラにも一緒に来て撮影をしてくれていたはず」
悲しいことに不幸は続く──。
これ、やる意味があるのか?
昨年初め、新たに高柳が遠征のメンバーとして加わった。高柳はパンドラのピラミダルなカッコ良さに惹かれ、いつか登りたいと写真を持っていたという。
そして2月には大石が住む静岡県で平出和也と中島健郎の講演会があり、対談役で呼ばれた。
「平出とは学生時代からの友人で共にチョー・オユー(標高8,201m)に登った仲です。講演会では未踏ルートに挑戦しようとする平出たちを僕が激励しなきゃならなかったのに、逆に(パンドラ)頑張ってくださいと激励されてしまいました」
7月、平出らはパキスタンのK2(標高8,611m)西壁ルート登攀中に滑落。帰らなかった。度重なる仲間の死。9月末にパンドラ遠征を控えていた大石の元には「本当に行くのか」と、心配する声が。さらにネパール到着後、パンドラの途上で大規模な落石事故が発生。帯同のキッチンボーイが落命してしまう。
「中止か続行か、鈴木と高柳ととことん話し合いました。こんな登山をやり続ける価値や意味があるのか。不幸なことが起きすぎて次は自分たちの番じゃないか、そんな思いも過りました」
苦悩する大石らに現地ガイドのパワン(谷口・和田隊のときにも帯同)が「行ってください」と背中を押した。その声に再び進み始めたが、混沌のままだった。
いよいよ壁へ、ついに……
日本を出発してから2週間以上をかけてようやく初対面したパンドラ。壁を見上げた大石と高柳は、ほどなく絶句する。
「壁に氷が少なかったんですよ。ベースキャンプからパンドラの基部までも2日を要しますが、そこも氷河が溶けて崩壊が激しかった。壁に氷がないと登攀は難しくなります。見た第一印象は、登れないかもって……」
近年の気候変動は凄まじい勢いでヒマラヤの氷をも溶かしていた。違う山に見えたという。
「でも翌日、鈴木と見上げたときには、昼光の明るさもあったかもしれないけど、いけるんじゃないか? という話になりました。鈴木は(登る)ラインが見えたと。岩だらけなのは変わらないけど、前日は夕暮れに見たので少し威圧感がありました」
とはいえ氷がない基部は、越えられるかどうか、ひとつの核心部分といえた。1日目、鈴木のリード(先導)で不安定な岩壁を登り始める。浮石を落としながら進むような脆さだった。結局、丸1日かかってようやく氷があるところまで到達。2日目は氷壁の後に巨大なクーロワール(縦溝)を越える。たまに出てくる岩は相変わらず脆弱で全くもって気が抜けない。3日目、標高は6,000m付近に達する。
「うまくいけば2泊3日でいけるんじゃないかと思っていたけど、倍の時間がかかってました。7年前のフランス隊の写真にはテントが快適に張れそうな雪のテラスが写っていました。そこまでいけばロープを外してのんびりできるかと思っていたけど、雪と氷の様子は全く違っていた」
4日目。壁の終わりが近そうに見えたがなかなか近づかない。
「壁を抜け稜線に出る最後の部分はサラサラの雪。手を突っ込んでも落ちちゃうような。もう全身の摩擦を使って体を上げていくようにして。その時点でヘッドランプが必要な暗さでジリジリと登りました。ようやく稜線を乗り越えて頂上稜線だと確信したときはうれしかったです」
この日のうちに山頂を往復し、テントに戻る予定だった3人はストーブも持たず水も1.2ℓのみ。大石は特にカラカラだった。そして、冒頭のシーンへ戻る。
登頂の3日後、パワンらの待つベースキャンプに帰ってきた。
「やっと、そこで自然と涙が出てきましたね。生還できたって」
彼らは登攀したルートに“A Piece of the Sun(太陽のかけら)”と名付けた。
4日目。脆くボロボロな壁を心許ないプロテクション(墜落保護の支点)で登る大石。以前はしっかりした氷が張っていた。
パンドラはネパールの北東にある標高6,850mの山。世界第3の高峰カンチェンジュンガのエリアに位置する。基部で5,300m、山頂に到達するには標高差1,500m以上の大壁を越えねばならない。’02年にデンマーク隊が南壁から初登攀(非公式)、’15年谷口けい・和田淳二が北東壁から挑戦し壁の上部まで到達するも敗退、’17年フランス隊が北東壁を完登している。パンドラとはネパール語で「15」という意味。
大石にとって旧知の仲間たちを偲ぶ。左から山岳カメラマン平賀淳(’22年撮影中のアラスカにて逝去)、アルパインクライマー谷口けい(’15年北海道黒岳にて逝去)、中島健郎と平出和也(’24年K2西壁未踏ルート挑戦中に逝去)。
花崗岩の切り立った壁を登る高柳。大石と鈴木よりも8歳若く、写真家としてはもちろん今後の活躍が期待されるクライマーでもある。
3日目、約6,000m付近。岩と氷が混ざる壁を登る鈴木。大石とは10年以上パートナーを組み、谷口とも旧知だった。彼もまた登頂への強い思いを静かに抱えていた。
テントがギリギリ張れるスペースで眠る。パンドラと同じくらいの7,000m級の山々が周囲には聳えていて神々しい。
壁を抜け山頂稜線に出てひとまず安堵するが、6,500m付近でビバーク。半雪洞を掘り身を寄せ合って太陽が昇るのを待つ。
青天の下、山頂に向け力を振り絞る大石。背後には壮大なチベット・ネパールの高峰が波打っている。パンドラがいかに奥深い場所にあるかを感じさせられる一枚。
パンドラ登頂! 鈴木と高柳にとっては初めてヒマラヤの頂を踏んだ瞬間でもあった。下山を考えると手放しでは喜べないが、ここでひとつの区切りが打てた。
※構成/須藤ナオミ 撮影/高柳 傑
(BE-PAL 2025年2月号より)