
ゴール地点には500人を超える人が集まり、民族音楽とダンスで出迎えられた。この偉業を成し遂げたガンプさんはどんな軌跡でここに辿り着いたのか、アフリカ縦断へ導いたストーリも伺った。

ケニアから走ってきた軌跡。ブルーの現在地点はついにゴールの南アフリカにある。
2025年1月26日——
アフリカの大地を6400km駆け抜け、ガンプさんはついにゴールした。
ケニアから南アフリカまで、人力車を引きながら、ひたすら走り続けた7か月間。6カ国の大地をガンプさんは踏みしめ、足跡を繋いできた。そしてこの日、その壮大な旅が終わりを迎えた。

大勢の人で盛り上がるゴール地点、歓喜のガンプさん。
ゴール地点には、500人を超える観衆が集まっていた。ほとんどが南アフリカ、現地の人々。SNSで拡散された彼の挑戦に感動し、応援するために駆けつけたのだ。その熱狂はすさまじく、「ガンプ!ガンプ!」とコールが沸き起こる。中には涙を流しながら彼の姿を見つめる人もいた。
「うわ……本当に来てくれたんやな……」
ガンプさんは込み上げる想いを抑えきれず、目頭を押さえた。日本からも30人ほどの仲間が駆けつけ、喜びを分かち合った。

ガンプさんをゴールで出迎えた人たちと。
全ては“現場力”から生まれた

カラフルな民族衣装でゴールイベントを盛り上げてくれた、ダンサーたちと。
ケープタウンのハーバーで行われたゴールセレモニーは、想像を超える盛り上がりを見せた。
「出発当初から計画はしていたんですが、直前までどうなるかわからなかったんです」
そう語るガンプさん。実は、本来ステージでパフォーマンスをする予定だったアーティストが、直前で来られなくなるというハプニングが起きていた。しかし、現地入りしていた日本の仲間が、まさに“現場力”を発揮。公園でダンスグループに声をかけ、その場で出演をオファーしたのだ。
「明日、アフリカ縦断してきた友人がゴールするんだけど、一緒に盛り上げてくれない?」
その一言に、ダンサーたちはまさかの即決で「OK!」と快諾。翌日、彼らのエネルギッシュなアフリカンダンスが会場を熱狂の渦に巻き込んだ。ガンプさんもステージに上がり、全身でそのリズムを感じながら踊った。
「こんなに盛り上がるとは思ってなかった……うれしすぎて泣いてしまいました」
SNSで話題が広がると、南アフリカのメディアも注目。テレビやラジオ番組に10回以上出演し、英語でのインタビューを通して旅への想いを語り続けた。

現地の人、日本からの応援団に囲まれて喜びに溢れるガンプさん。
「なぜ、こんなにも応援してくれるのだろう?」
ふと、ガンプさんは考えた。
「もし自分が南アフリカ人で、同じ国の誰かがこんな挑戦をしていたら、きっと応援すると思う。でも、僕は日本人だし、大会に出ているわけでもない。ただの“自己満足”かもしれない旅なのに……それでも、こんなにも応援してくれるなんて。なんて優しい人たちなんや……」
国境を越えた人々の温かさに、ガンプさんの心は感謝でいっぱいになった。
帰国後も、その反響は止まらなかった。オンラインでは南アフリカのメディアから取材のオファーが続き、ついにはロイター通信までが彼の旅に注目した。
ガンプさんの旅は、ただの距離の移動ではない。人とのつながりや想いの共有、そして何より圧倒的な“現場力”があった。
6400kmを走り抜いたその先で得たもの——それは、何よりも大きな「人の温もり」だった。
ケニアをスタート地点に選んだ理由

ケニアがスタート地点に決まったきっかけをくれた、ゆうまさんとガンプさん。
アフリカ縦断のルートを決めるには、一つの物語があった。
2023年アメリカ横断を終えて日本に戻ったある日、ガンプさんは銀座のスナックにいた。隣に座った一人の女性と偶然話し始めたところ、彼女の子供の話になった。
「うちの子ね、ちょっと障がいがあるんだけど、動物や自然が大好きでね。その生き物たちからインスパイアされて、こんな絵を描いてるのよ」
そう言って見せてくれた絵は、カラフルな色で生命力にあふれ、ガンプさんの心を打った。
「今、クラウドファンディングをやっていてね。いつも動物園や植物園で刺激されて描いてるんだけど、本物のアフリカの野生動物を見たら、どんな絵を描くんだろうって。私たちはそれを楽しみにしてるの」
その話を聞いた瞬間、ガンプさんのワクワクにスイッチが入った。
「僕も何か協力したい!」
彼女の息子・ゆうまさんの絵を、ガンプさんが手掛けるアパレルブランドのデザインに取り入れ、販売することで資金を集めることに決めた。そして、ついに目標金額に到達し、ガンプさんはゆうまさんと彼の家族、友人たちとともにケニアへ向かった。
ケニアの国立公園では、たくさんの野生動物に出会った。ゆうまさんは目を輝かせながらスケッチを続けた。そして訪れたのが、ムクル地区にあるアート施設。そこでは、スラム街の人々が仕事のない状況を打破するため、アート作品を制作・販売して生計を立てていた。
ゆうまさんは、その街の壁に絵を描いた。その姿を見た時、ガンプさんは思った。
「アフリカ縦断のスタートは、ここ、ケニアしかない」

ケニアのスラム地区にあるアート施設。壁に動物を描くゆうまさん。
当初、エジプトから始めることを考えていた。しかし今までもストーリーのある場所を大事にしてきたガンプさんは、アフリカ縦断の出発地点をケニアに決めた。
さらにケニアで新しい出会いもあった。旅の仲間にもなるケニア人のコーディネーター、レギーさんだ。
ケニア、ナイロビの日本食レストランで働いていたレギーさん。彼は以前、日本人YouTuberのサポートもしていて、英語も堪能だった。
旅をすることにも憧れがあり、ガンプさんの旅に賛同した。アフリカ縦断のためには、運転手が不可欠。しかし、ケニア・タンザニア・ザンビアでは国際免許が使えず、現地の人しか運転できないという問題があった。それをレギーさんが快く引き受けてくれた。
こうして、すべてのピースが揃い、アフリカ縦断の旅が始まったのだった。
アフリカ縦断で見つけた「旅の意味」

「Run For Snack」でお菓子を配るガンプさんと、求めてくる子どもたち。
アフリカを旅してガンプさんが感じたのは、これまでのアメリカやヨーロッパの旅とはまったく違う現実だった。道中で目にしたのは、1日3食を満足に取れない人々の姿。空腹のまま過ごす子どもたちが想像以上に多かった。
「こんな状況を見て、自分だけが旅を楽しんでいいのか?」
何度もそう自問し、自分の無力さを痛感した。
しかし、旅を続けるうちに、「自分にできることをやるしかない」と思えるようになった。地域の人たちと関わりながら、小さくても何か行動を起こす。それが、ただ無力さに打ちひしがれるよりも、ずっと意味のあることだと気づいた。
そんな想いから生まれたのが、「Run For Snack」という企画だった。もともと、日本のランナーたちとつながりながら走る「Run For Fun」という活動をしていたが、それを活用し、参加費100円をお菓子の寄付にあてる仕組みをつくった。
「子供たちがぼくを追いかけて来るんですが、いつも食べ物やお金をほしがってました。こんな物乞いのような状況に直面して、何かできないかと考えたんです。お菓子が本当に必要かはわからないけれど(笑)、でも、この小さな支援をきっかけに、交流が生まれて新しい可能性が広がるかもしれないと思いました」
ガンプさんは、段ボール1箱600円ほどのクッキーを人力車に積み、道中で出会う子どもたちに配りながら走った。旅の途中で生まれた小さなアクションだったが、それが自分にとっては、旅の意味を見つめ直す大きなきっかけになった。
アフリカの旅は、日本の仲間とも一緒に走るという思いで、ガンプさん1人の挑戦ではなくなった。苦しいなかでもなにかアイデアを生み出し、行動し、少しずつ形になっていく。ガンプさんはそれこそが、旅の本当の価値なのかもしれないと感じていた。
「止まったら死ぬ!ガンプさんの幼少期」

「止まったら死ぬ」と祖母泣かせで、やんちゃな幼少期のガンプさん。
ガンプさんの幼少期を振り返ると、今と変わらないほど活発だったことがよくうかがえる。
「とにかくじっとしていられない子どもだった(笑)」
祖母の家で、ガンプさんはミシンの上から飛び降り、部屋中を走り回っていた。「ユウちゃん(ガンプさん)、ちょっと止まってじっとしとき!」と注意されても、すぐにまた動き出す。「ユウちゃん、止まったら死ぬな」と、半ばあきらめ気味に言うのが祖母の口癖だったという。
小学校2年生で地元のサッカークラブに入る。間違えて3年生のチームに飛び込んだのだが、すぐにレギュラー入り。「キャプテンタイプではなかったけど、なんとなくチームをまとめる役回りだった」と語るように、目立つ存在だったガンプさん。
ポジションはずっとフォワード。自他ともに認める攻めの姿勢だった。Jリーグの試合を観戦し、三浦和良こと「キング・カズ」に憧れ、河川敷でボールを蹴る日々を送った。
そんなガンプさんだが、高校、大学と骨折で2度の手術を経験する。サッカーで酷使した両足にはボルトが1本ずつ入った。ところが、手術翌日には友達に「迎えに来て」と電話し、松葉杖でサッカー観戦へ。
その後、さらにパチンコにも行き、留守番電話には看護師からの「今すぐ帰ってきなさい!」のメッセージ。病院に帰ると、大目玉をくらい、反省文を書いた。
さらに、入院中に王将の出前を取り、病室を餃子の匂いで充満させて、またもや大目玉。「全部笑い話になったけど、めちゃくちゃ怒られたな」と、笑いながら振り返ってくれた。
「止まると死ぬ」と言われるほどのエネルギーは、大人になっても変わらなかった。そんな破天荒な少年時代を過ごしたガンプさんだからこそ、世界を走る旅へとつながっていったのかもしれない。
母の一言で動き出した旅人への道

ブラジルのチームに所属していた時のガンプさんの思い出。祖母の家にはたくさんの写真が飾ってある。
ガンプさんが初めて海外へ渡ったのは、大学3年生の時。サッカー部ではレギュラー争いに敗れ、応援団として頑張ったが、もうダメだと感じていた。
「サッカーを辞めるなら、最後にブラジルに行けば?」
幼い頃からカズのようにブラジルへの夢を語っていたガンプさんを知る母は、そう言って背中を押した。ガンプさんは「最後の悪あがき」として単身ブラジルへ向かうことに。
「初海外だったんですよ。乗り換えのロサンゼルスの空港に降り立ち、右も左も分からずパニックになっていたところ、偶然出会ったのが、世界を旅する村上さんという人で。『お前、頭悪いな。日本で活躍できなかったやつが、ブラジルで通用するわけないやろ』って言われましたね(笑)」
村上さんはそう言いながらも、ガンプさんをブラジルの「宮城県人会」に紹介し、サッカーチームのスポンサーである男性に繋いでくれた。運よく1か月の滞在許可をもらい、「ブラガンチーノ」というプロチームに所属するチャンスをもらった。
その後、継続してプロにはなれなかったが、ブラジルへの渡航が「旅人」として生きる原点となった。
帰国後、サッカー熱の落ち着いたガンプさんは、今度は世界を回りたいと思い、資金集めで働き始めた。これが人力車との出会いだ。
東京・浅草で人力車を引きながら、3年間走り続けた。そんな中、友人から「人力車で世界を旅したら面白いんじゃないか?」と言われ、そのアイデアに心が動いた。
貯めた資金だけでは、人力車の購入や輸送費が足りなかった。そこで、2016年2月にクラウドファンディングを開始。当時はまだ一般的ではなく、「詐欺じゃないの?」と言われることもあったが、約200万円を集めることに成功。こうして念願の人力車を手に入れ、「人力車で世界を走る」という挑戦が始まった。
人力車で切り開く未来

6400kmは日本から持参した8足の足袋で駆け抜けた。ゴールの時に履いていた足袋にはみんなからのメッセージが。
ガンプさんはその人力車とともに旅へ出た。アジア、オーストラリア、ヨーロッパ、アメリカ、そしてアフリカ——世界を駆け抜け、総走行距離はすでに25,000kmを超えた。
アメリカ横断後には、自らの旅を記録したドキュメンタリー映画を制作。リアルタイムで旅を追えなかった人々にも、その挑戦が届くようになった。そして今、アフリカ縦断の旅も映画として形にしようとしている。完成すれば、人力車とともに全国、そして南アフリカを巡り、自主上映の旅に出る予定だ。
「TYMってわかります?」
突然の問いかけに戸惑っていると、ガンプさんは両手をT・Y・Mに動かしながら笑った。
「とりあえずやってみる、です」
7か月間、ガンプさんの未踏の旅を続ける姿をみせてもらい、行動の根底にはこの言葉があるのだと理解した。計画や理屈よりもまず行動。挑戦しなければ、何も始まらない——その思いが彼を走らせている。
「最終的に、どこを目指しているんですか?」
そう尋ねると、ガンプさんは迷うことなく答えた。
「人力車で月面着陸ですね」
無謀に思える夢も、彼の中ではすべてTYMの精神だ。次なる旅がどんな景色を見せてくれるのか。ガンプさんの挑戦は、まだまだ終わらない。

一番きつかったナミビアを走るガンプさん。これが最高の思い出に。
ガンプ鈴木さんの関連リンク
写真提供:Just For Fun (同行カメラマン=ハルノスケ、関大基、パト)