福澤諭吉の肖像。若い頃から居合と米搗き(精米)で身体を鍛えていたが、晩年は毎朝の散歩を日課とした(国立国会図書館蔵)
福澤諭吉(1834-1901)は明治時代の教育者・思想家で、慶應義塾を創設した人物だ。なにより、われわれにとっては1万円札の肖像としておなじみだろう。代表的著作の『学問のすゝめ』は、読んだことはなくても、冒頭の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」の一句は聞いたことがあるはず。
画期的だった「運動としての散歩」
福澤諭吉がすすめたのは学問ばかりではない。
「つねに心身を快活にして、かりそめにも健康を害するの不養生を戒しむべし」と、なにをするにもその基礎となるのは心身の健康であると述べている。
言うだけではなく、福澤自身が健康法として晩年から日課としていたのが朝の散歩である。今でこそ散歩を日課にしている人は多いけれども、福澤が生きた時代は、用事もないのにただ歩くことは珍しいことだった。
散歩という言葉じたいは中国から伝わってきたものだが、日本では明治になってから一般的に使われるようになったようだ。当時の和英辞典では「Walking for exercise」(運動のために歩くこと)と訳されており、現代の「ウォーキング」の意味でとらえられていた。
福澤が行なっていたのは、まさに健康づくりのための積極的な運動としての散歩だった。
明治19年(1886)に出版された『改正増補和英英和語林集成』(ジェームス・カーティス・ヘボン著)。「散歩」の英訳は「walking for exercise」(国立国語研究所蔵)
朝4時半になると東京・三田(港区)の丘の上にある福澤邸では散歩のスタートを告げる銅鑼(どら)が鳴らされ、学生たちが福澤邸へと集まってくる。三田から白金三光町(港区)方面へ歩いてゆき、広尾(渋谷区)を経て、目黒(目黒区)で折り返して帰ってくる約6kmのコースを、雨の日も雪の日も休むことなく歩き続けた。
福澤は道すがら、住民と談笑したり、子供らに菓子を配ったりと、周囲にしゃべり続けながら歩いたという。お伴する学生たちにとっては、老境に入った福澤に親しく接する貴重な機会であり、散歩の一行には学生だけでなく、社会人となっていた教え子や慶應義塾の教師らも加わり、多いときには二十名以上が参加した。福澤はこの一行を、親しみを込めて「散歩党」と称し、散歩のあとに朝食会を開くこともあった。
この「散歩党」の常連に島津君という学生がいたが、いつしか散歩に加わらなくなり、慶応義塾の教室にもあらわれなくなった。しばらくすると、島津君が病気で亡くなったらしいという噂が聞こえてきたが、学生らはさほど悼まず、福澤にも報告しなかった。
じつは、散歩に参加している島津君の体調が悪いことに福澤が気づき、島津君に休学と休養をすすめ、さらに彼の郷里の長野まで出向いて見舞い、東京への転院の手続きまでしていたのだった。
そのことを学生らはあとになって人から聞き、「福澤先生は、散歩をしながら、われわれの体調にまで気を配っていらしたのか」と、師の慈愛に感じ入るとともに、友人に対する慚愧の念に涙を流したという。
福澤の散歩は脳溢血で亡くなる直前まで続けられた。福澤とともに歩いた学生には、のちに「電力王」と呼ばれた財界人の松永安左エ門や、文部大臣をつとめた高橋誠一郎らがいる。
構成/内田和浩