石垣島出身の3名と西表島出身の1名による4人組バンド「トレモノ」。フェスやライブ会場などを中心に話題になっている彼らが、7/5発売の1stフルアルバム『island island』(ワーナーミュージック)でついにメジャーデビュー! 南国を彷彿させるトロピカルなサウンドと、優しく温かなアコースティック感が今のトレモノの音楽。ゆったりリズムに身をゆだねれば、いつのまにか心は南の島へと。「トレモノってナニモノ?」をテーマに、いろいろとお聞きしました。
ベース:仲間全慶(27歳)/通称:マサボー
ボーカル:木田龍良(30歳)/通称:チャンタツ
ドラム:狩俣匠吾(30歳)/通称:カーリー
ギター:難波 良(33歳)/通称:難波にぃにー
石垣島ではなく、東京でバンドを結成
——結成の時期や経緯について教えてください。
木田龍良さん(以下木田):結成は2009年なので、今年で8年目ですね。最初の2、3年は本当にもう……ひどかったですね。バンドで食っていくつもりもなく、だらだら活動していました(笑)。それでも、活動を続けているうちに、ありがたいことに、2013年にタワーレコード主催の新人発掘のオーディションで約1000組の応募アーティストの中からグランプリをいただきまして、そこからCDデビューといった形で本格的に活動するわけなのですが、その時に僕たちの担当として、まだタワーレコード在籍だった三谷さんと出逢い、昨年は一緒に独立レーベルを設立し、今でもずっと一緒という感じです。
難波 良さん(以下難波):結成の経緯は、もともと僕と木田が、別のバンドを組んでいたんです。当時の木田は、ボーカルでなくドラマーでした。僕がギターで、別にベースとボーカルがいる、「SK」(仮称:本当のバンド名は恥ずかしいのでひみつ)というバンドでした。
木田:SKで知り合う前、島では面識がなかったんですが、難波くんは地元では超有名な早弾きギターリストの弟子だったので、僕はそんな先輩として知っていました。大学(経済学部)進学で上京して、20歳のときに、知り合いから難波くんのいるバンドがドラムを探していると聞いて、「ぜひ、やらしてください!」とお願いしたんです。でも、まったくドラムの経験はありませんでした(笑)。
難波:僕、そのこと知らなくて。石垣出身でドラムが叩きたい奴がいるよ、と紹介されて、それならぜひということで、スタジオに初めて入って、音出すじゃないですか? そしたら、へったくそで! うそだろー!? っていうくらい(笑)。ドラムはいつからやってるの? と聞いたら、「3ヶ月です!」とか答えるし。うわーと思ったんですけど、人当たりめちゃくちゃいいし、情熱にあふれていて、服もおしゃれだったし。まぁ、いっかと。
木田:でも、みるみるうちに上手くなったでしょ?
難波:最終的に、まぁ叩けるようにはなった(笑)。
パチンコで200万円の借金
沖縄居酒屋の店長も
——難波さんは、SKの結成までは何をされていたんですか?
難波:音楽やりたくて、音楽の専門学校に通うために上京しました。それで、2年制の専門学校を1年で卒業して。
木田:卒業してじゃなくて、中退でしょ(笑)。
難波:まぁ、じつはパチンコで200万円の借金を背負いまして、働いて返そうと。深夜コンビニ、昼間は電話の営業の仕事をやって、完済しました。無駄な時間だったぁ……。そのころもバンド活動は一応やってたんだけど、ストレス解消バンドでライブが終わったら、6本ある弦が1本しか残ってない! みたいな激しいロックバンドでしたね(笑)。
——いまは東京・世田谷の「沖縄居酒屋 ゆいゆい」の店長でもあるんですよね?
難波:そこで日々、生計を立てております。もともと母親が旦那と喧嘩して上京してきて、6畳一間でのふたり暮らしが始まったんですけど、若者にはちょっと……(笑)。と思ってたら、母が突然、お店を始めて。その後、旦那と仲直りして、島に帰っていったので、創業は11年で、私が店長になって、8年目のお店です。
木田:バンドとお店を任されたのが、同じぐらいだよね。よく続けてこれたよね。
——仲間さんは、なぜ東京に?
仲間全慶さん(以下・仲間):ぼくは高校を卒業した後、プロのベーシストを目指して、東京の専門学校に通っていました。そのころ、ボーカルギターの木田さんの弟とバンドをやっていて、ある日、「うちのお兄ちゃんがバンドやってるから見に行こうよ」と誘われて見に行ったのが、SKだったんです。それで、難波くんがギターを弾く姿を見て、ものすごいギタリストがいるなあ、と。
難波:あっはは! 嘘つけ!!
仲間:ほんと、ほんと! すごく好みで。それで、その後、木田さんからベースやってよ、と誘われたときには、難波さんのあのライブを思い出して、「やります!」と。
木田:じゃあ、難波くんがいなかったら、誘いにはのってなかったのかもね。
——木田さんのドラムはどうでした?
仲間:へったくそでしたよ(一同爆笑)。
木田:覚えとけよ!
ボーカル木田とドラムの狩俣は、中学校の同級生
——前身は「SK」というハードロックバンド。そのメンバーだった難波さんと木田さんが中心となって「トレモノ」になるわけですが、いったいどうやって「トレモノ」が誕生したのでしょうか? 音楽傾向がまったく正反対な気もするんですが……。
木田:いろいろな事情があって、そのバンドはなくなっちゃうんですけれど、解散ライブで、ちょっと前に出て歌ってみろよ、というフリをされて、歌ったら気持ち良くて。もともとは、後ろで支えていたいタイプの人間だったんですけれど、そのときに味を占めちゃいまして(笑)。そのライブ後に、いろんな方から良かったよ、といわれたこともあって、それから、ひとりで弾き語りをするようになりました。
難波:ライブのときに、初めてソロで歌声を聞いて、ほぉ、良い声だね、結構いいかもなーという感じはありました。とはいえ、俺も居酒屋の仕事に専念しようと思っていたので、ギターもケースにしまって、押入れに入れて、さよならしていました。そしたら、半年後ぐらいに誘ってくれて、彼がボーカルということだったので、それなら面白いかもね、と思って、活動を再開することにしました。
木田:それで、マサボー(仲間)に声をかけて、それから狩俣を引っ張ってきて。
——木田さんと狩俣さんは、もともと同じ中学の同級生だったんですよね?
狩俣匠吾さん(以下狩俣):そうですね。大っ嫌いだったけどね(笑)!
木田:中学生のころに、同じクラスだったんですけれど、狩俣と木田なんで、あいうえお順で並んでいくと、すぐ前に狩俣がいるんですね。それでよく授業中に消しゴムちぎって、コイツに投げてたんです。
狩俣:頭に何かが当たるから、後ろを振り返るじゃないですか。そしたら、木田はしらんぷりしていて、オレだけ先生に怒られる、みたいなことに。それをしょっちゅうされて、嫌いになった。それが中1のときですね。
木田:仲直りは……たぶん、まだしてないですね(笑)。でも、もうだいぶ確執もなくなって。
狩俣:心に負った傷も癒えて(笑)。
——狩俣さんは「トレモノ」結成前は、どんな活動をされていたんですか?
狩俣:僕は高校生の時から、ギターロック系のバンドでドラムを叩いていました。村上ポンタ秀一さんのビデオを見ながら、家でドラムの練習していましたね。
木田:島では、家でギター弾いても、ドラムを鳴らしても怒られないんですよ。東京だと、近隣の方から苦情があると思うんですけれど、石垣の場合、音楽にかなり寛容ですね。
狩俣:高校卒業後は、神戸の音楽専門学校へ行きました。音響の裏方さんの技術を学ぶコースでした。卒業後、東京に出て、いわゆるライブスタッフの裏方のバイトを始めたんですが、そのうちだんだんと表に出たくなっちゃって。欲が出て、サポートでドラムをたたいていたりしているうちに……
木田:大嫌いな、僕から連絡が来たわけですよ。
狩俣:ちょっとスタジオ入ろうよー! とかいってね、そのままいつの間にか。
木田:ちゃんとメンバーになって、という話はしてないよね。みんなそうだよね。でも、一応、僕がみんなに声をかけて集めた感じかな。
これまでにない、新しい沖縄サウンドをつくりたい
——みんな故郷が同じなのに、島ではなく、東京でバンドを結成するなんて、不思議ですね。沖縄らしさ、というのは意識していますか?
木田:今までの沖縄にはなかった新しい沖縄サウンドというのをつくりたいなと思っています。新しく“アイランドポップ”という音楽を僕らで開拓していきたいなと。
難波:南国を彷彿とさせるトロピカルなサウンドに、ポップなメロディーがかけ合わさったのが“アイランドポップ”です。曲づくりはスタジオに入って、セッションしながらできていく感じですね。音ができていくあの感じ、ゾクゾクするよね。
木田:二度と同じものは出ないからね。ずっとセッション型だったんだけど、最近は結構みんなでネタを持ってきて、曲を書いてきて、ということも増えていて、スピードもクオリティも上がっていますね。最初は、僕と難波でつくっていたんですけど、4人いるんだから、4人の価値観それぞれあるから、それを僕が代弁して歌えたほうがいいんじゃないかなと思いまして。そのほうが気持ちがのることもあるだろうしね。
——初のフルアルバム『island island』は、どんな想いを込めてつくりましたか?
木田:「“アイランドポップ”とは何か」というのを確立することがテーマとしてあって、それが何かは、まだ言葉にできないんですけれど、今はなんだろうな……自分たちから出てくるものが、アイランドポップなのかな。石垣島で生まれ育って、石垣島で感じたものを東京で鳴らすというか。今回のアルバムに関しては、故郷である石垣島とか西表島を思って、つくった曲が多いですね。
難波:今までにないほど、故郷を思った曲が多いですね。みんなでつくってるから大切で愛おしい。とても大事な曲がいっぱいできたし、楽しかったね。
——歌詞もみなさんで?
木田:誰かがネタを持ってきて、「ここはないよね」というところは添削して。たとえば狩俣の歌詞には、「手を上げよう」という表現がやたらと多いんですよ。さすがにちょっと手上げすぎだろ! って意見が多かったので、削りました(笑)。最初のころは、歌詞を見せることが、日記を見られるみたいな感覚で恥ずかしくて、みんなで共有していなかったんですけど、最近はその恥ずかしさがパッとなくなって。詞も曲もみんな持ってきてくれるようになってきたので、バンドとしては潤っていますね。
——歌詞からは、島、大切な人へのたくさんの愛や、東京で音楽を続けることへのもがき、島に帰りたくても帰れない切なさも感じられました。島へ帰ろうと思ったことはありませんか?
難波:東京で音楽を続けるこだわりはあるよね。やっぱり離島から出てきて、東京でやることは、地元の後輩とか若い子たちに、島出身でも東京でこれだけできるんだよ、という証明になるはず。だから、これからも島の若い子たちに自分たちが活躍する姿をどんどん見せていきたい、という気持ちは強いです。でも、まぁいつかは帰りたいね。
木田:いつかはね。でも、いまはまだ早いかな。まだまだ頑張って、頑張って、頑張らないと。
(【SMALL TALK】トレモノ・インタビュー後編へつづきます)
トレモノ
2009年結成。石垣島出身の木田龍良(Vo&Gt/30歳)、狩俣匠吾(Dr/30歳)、仲間全慶(Ba/27歳)と、西表島出身の難波良(Gt/33歳)の4人による。ソウル・ファンク・レゲエ・ラテン・サーフと様々なジャンルを、南国育ちの感性でチャンプルーしたトロピカルなサウンドが特徴なアイランド・ポップバンド。 2013年に開催された、タワーレコード主催オーディション「Knockin’ on TOWER’ s Door vol.3」にてグランプリを獲得。その後、「SUMMER SONIC 2013」をはじめ、各地のフェスに参加。2015年には地元石垣島で開催された「Tropical Lovers Beach Festa’2015」や「石垣島 TsunDAMI アイランド野外フェス2015 」など、地元でも活躍の場を拡げ、ライヴパフォーマンスも注目を増し、フェスバンドとしての知名度も高まる。2017年には、富士通 FMV「ずっと、あなたと。FMV」Web CMに書き下ろし楽曲を提供。また石垣島マラソンのテーマソングを提供。3月には地元沖縄県八重山郡竹富町の観光大使に就任。そして7月にはキャリア初となるフルアルバムをワーナーミュージック・ジャパンよりリリース。
▷トレモノオフィシャルサイト http://toremono.com/
◎文=上浦未来 写真=関口佳代