→★前編「世界遺産、長崎・野崎島でひらめいた「人生のピンチ」突破術」はこちら
→★中編「日本人はなぜコンクリートと蛍光灯を選んだのか? 」はこちら
博多発のフェリーで一泊。小値賀島の古民家に一泊。そして3日目の17時5分、小型高速船「ありかわ」で小値賀島を出港しました。めざすは、中通島(なかどおりじま)。旧野首教会を建てた大工棟梁、鉄川与助の出身地です。
船に乗り込むと、操縦席のすぐ後ろにイス座席がふたりぶんあり、その後ろは絨毯敷きの客室になっていました。靴を脱いで上がり、おじさん、おばさんたちを見習って、脚を床に伸ばして背中を壁に預け、「く」の字型のリラックス・ポジションをととのえます。
なぜにかくも「ぐでー」とした体勢をとるのかは、出港してすぐにわかりました。船のスピードが速いため、波をぴしぴしと切りながら、振動が伝わってくるのです。
「く」の字だった体はだんだんとのびていき、いつのまにやら、ほとんど仰向けになっていました。
曇り空を透かして日差しが流れこんできます。コックピット正面に取り付けられている丸いワイパー窓の向こう側に満ちているのは、まるでとけたバニラアイスクリームのようなふわふわした光。海だか空だかわからないその景色をぼんやりと見ているうちに、だんだんと眠たくなってきました。子供のころ、畳に仰向けに寝っ転がって、日だまりにふわりふわりと漂うほこりを、ぼーっと眺めていたことがあったなぁ。そんなことを思い出しました。
突然、ぐぐっと壁に押しつけられたと思ったら、視界がなめらかに旋回し、目の前に海峡が現れました。左に野崎島、右に中通島。乱反射する海の前方正面に「狭き門」のような海峡が待ち構えています。その海峡に向けてぼくらの船はうなりをあげ、風を切って進んでいきます。
17時50分。中通島の有川港に到着。空は高く、まだまだ明るさを残していました。
世界遺産集落のランドマーク「頭ヶ島天主堂」へ
翌朝、電気自動車のレンタカーを借りて、中通島の教会をめぐりました。
まず最初に訪れたのは、「頭ヶ島天主堂」。頭ヶ島は小さな離島で、昔は船でないと渡れなかったようですが、現在は橋がつながっています。ただ、直接車で訪れるのはNGで、上五島空港でシャトルバスに乗り換えて訪れるルールになっています。
●詳細はこちら→「ながさき旅ネット」
頭ヶ島の集落も、今回新たに登録された長崎・天草の世界遺産12資産のひとつ。江戸時代末期、1859年ころから、大村藩の潜伏キリシタンたちがこの島に移り住みました。
「いやー、意外とキツイなこの階段!」などとぶつくさいいながら石の階段を登っていくと、てっぺんに教会が現れました。
ぽっかりしたドーム天井と丸いステンドグラスが、ほのぼの感満点です。こんなこというとしかられるかもしれませんが、なんともかわいらしい!
鉄川与助とは何者なのか?
頭ヶ島天主堂は、1919年(大正8年)に完成。設計施工は、鉄川与助(1879-1976)です。そう、野崎島の旧野首教会と同じ大工棟梁です。
鉄川与助は、この中通島の青方村の出身で、キリスト教徒ではなく、仏教徒だったそうです。大工の父の後を次いで建築の道に入り、20歳のときにフランス人宣教師・ペール神父の仕事を手伝ったことをきっかけに教会建築の道へ進みました。
西洋建築が少なかった時代。目と手足を使ってヨーロッパ流の教会建築技術を吸収し、明治大正期にたくさんの教会を建てた鉄川与助は、日本建築史上に燦然と輝くまさにパイオニア的な人物です。
「建築家」であり、「現場監督」でもあり、「大工」でもあった鉄川与助をプロ野球でたとえるなら、中日の谷繁(監督兼捕手)や、ヤクルトの古田(監督兼捕手)のようなプレイイング・マネージャー的な存在だったと思われます。ほんとうにすごい人です。思わず「よっ、与助棟梁!」なんていいたくなります。
その与助棟梁の指揮のもと完成した頭ヶ島天主堂。旧野首教会とおなじく、これまた一見小さな天主堂なんですが、信徒たちがこつこつと石を切り出して人力で積み上げたのだと聞くと、けっして小さな天主堂ではないという気がしてきます。たいへんな労力の果てに完成した、命がけの建造物なんです。
内部のステンドグラス越や花の文様なんかも、じつに心和むものでした。
「青砂ヶ浦天主堂」でDIY的スピリットを感じる
頭ヶ島天主堂を後にして、レンタカー(電気自動車)でいったん西の有川港のほうに戻り、最北端をめざすことにしました。昨日、船の右手に見えていた半島を、電気自動車で北上するのです。
まず訪れたのが、「青砂ヶ浦教会」。
ここも旧野首教会や頭ヶ島天主堂と同じく、鉄川与助の設計施工です。1910年(明治43年)に完成。鉄川与助にとっては、旧野首教会(1908年完成)に続いて人生で2つめのレンガ造りの教会です。
ヨーロッパの小さな町の教会と見紛う風情ですが、「天主堂」の文字がびしっと彫刻されていて、なかなかかっこいい。ちなみに、この建物は国の重要文化財です。ここでも海岸からレンガを運び上げたのは信徒たちだったとのこと。近寄ってみると、濃淡のあるレンガをひとつひとつ組み合わせて、細かな模様を生み出していることがわかります。
「小瀬良教会」にて
中通島北端の半島は、細長い爪楊枝のように伸びています。昨日、船から眺めた半島は、黒々とそびえたつ山脈のようで、高速船のスピードで30分以上も稜線のシルエットが連なっていました。
そこを実際にクルマで走ってみると、この半島がたいへんに切り立った山脈であることがよくわかります。うねうねとした細い山道を注意深く曲がりながら北上し、「小瀬良教会」の看板のある路肩にクルマを止めました。
体中の毛穴から汗を吹き出させながら階段を登ると、城の石垣のような台座に、ちょこんと小さな教会がのっかっていました。ここは、第二次大戦後の1951年に完成した教会です。
道路脇に立っていた解説看板によると、江戸時代に長崎の大村藩から移住してきた潜伏キリシタンたちは、この爪楊枝のような形の半島に漂着し、切り立った斜面の中腹の痩せた土地を切り開いて暮らしはじめました。
せっかく新天地に移住してきたのになぜこんなにも住みにくい土地を選んだのでしょうか? 農業や漁業に適した土地にはすでに先住者がいて、この場所のすぐ下の海岸沿いにも、漁民たちが長年暮らしていたからです。
「移住」というと、なんとなくわくわくするし、できればジンセイで一回くらい移住してみたいような気もします。昔の人だって、誰しもが夢を抱き、移住を試みたと思うのです。アメリカに渡ったピルグリム・ファーザーズしかり、アメリカやハワイ、ブラジルやペルーにわたった日系一世たちしかり、北海道を開拓した人々しかり。でもたいていの場合、移住の実際は、汗と涙の苦難に満ちた歴史でした。
18世紀の五島移住ブームは、実際のところ、どんな感じだったのでしょうか?
突然で恐縮ではありますが、ちょうどここにタイムトラベルのダイヤルがありますので、それをぐーんと回して、現地に飛んでみたいと思います。
準備はいいですか。行きますよー、はい、シュワッチ!
***
(※編集部注/以下は妄想に基づくフィクションです。方言とか時代考証が一部まちがっているかもしれません。その際は、どうぞおゆるしください!)
「るるるるる~♪ よっこらしょっと」(わらじを編む父)
17××年、大村藩のとある家の囲炉裏端で老いた父と息子のふたりが黙々とわらじを編んでいた。奥の部屋からは、小さな子供の泣き声がする。それを聞きながら、源左衛門(28歳)は思い立ったように面を上げた。
「おとう、ちょっと折り入って話があると」
「ん? どうしたと。(小声で)もしや、またまた好きな女子でもできたとか? もしや隣村の後家さんか? まったく、おちつきがねえのう。おめぇさ、こないだ嫁に逃げられたばっかやなかとか」
「ちゃうちゃう、マジな話よ。こないだ藩のお役人きて、移住キャンペーンのこと、話しとったやろ。それ聞いて、おらぁ、決めたと。来月、五島ば行くけん」
「ぬぅ……、そ、そうけえ。しかたなかとやね。うちは田んぼも小さかとで、おめらの子供らにもたらふく食わせてやれんかったけん。すまんかったのぅ……」
「おらぁ、島でひと旗揚げるばってん、心配せんといて。あっちは土地もあるし、アゴ(トビウオ)やらクジラやら、海の幸もようけおるけん」
――それから1か月後の。よく晴れた朝。帆をめいっぱいはらませて海に出た小舟は、風を受けて西へと進み、日がとっぷりと暮れた頃になってようやく五島列島・中通島に漂着したのである。
「おお、あそこに村が見えるぞぉぉぉ! いよいよ上陸じゃ~」
「おとう、あれが五島と?」
「そうばい。おらたちの、あたらしい桃源郷たい」
源左衛門一行は月明かりをたよりに船を岸辺に寄せ、じゃぶじゃぶと腰まで浸かって玉砂利をふみながら浜に上がった。海沿いの松林のすきまに、ポツンポツンと明かりがともる苫屋が見える。源三郎はたいまつの明かりを頼りに浜を歩き、粗末な板葺きの家を訪ねた。
「(ドンドンドン)ごめんくだせーい!」
真っ黒に日焼けした、ひげ面の男が戸口に現れた。恰幅がよい大男で、東大寺の金剛力士像(吽形)にちょっぴり似ている。ぎろりとひんむいた目。その下の隈がすごい。
「なんじゃあ、こげな時間に!」
「遅い時間にすまんとです。大村藩からまいった源左衛門と申しまする。藩の移住キャンペーンでやってきたとです。どこかに、住ましてもらえんだろうか?」
大男は、押し黙ったまま、頬をひくつかせている。
こらぁ、殴られるかもしれん…と、つばを飲み込んだ源三郎をにらみつけたあと、しばらくしてから大男が口を開いた。
「キャンペーンだかなんだか知らんけどな、ここには空いとる土地はなかよ。うちらは先祖代々ここで暮らしとっとばってん、生活はカツカツとよ。おめらの食うもんも、住むとこも、ここにはねえ。悪いけんど、明日の朝、大村に帰ってくれんかの」
「ちょ、待ってください! そこをなんとか、たのんます! (ガサゴソガサゴソ懐を探る) ほれ、これ、ほんの気持ちですけー。手土産の長崎カステラ、めしあがってくだされ」
「お、これは……(ほぐほぐほぐ)……うぐ、うめえうめえ。カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは……♪ やっぱうまかね。(むしゃむしゃ)どーも、どーも。……で、なんだっけ?」
「あのう、この村に住ましてもらえんとね」
「ならぬ!」
「海を渡って、体もつかれとーし、船もぼろぼろじゃー。もう大村にゃー帰れんとよ。どうぞ、お頼み申す。村の外れでよかばってん。ほんとにこのとおり、お頼みもうす!」
源三郎と5人の子供たちは、大男の袖にすがりつくようにひざまずいた。涙と汗と鼻水で、顔も手もぐちゃぐちゃである。その手を振り払うようにして、大男は叫んだ。
「せからしか! この谷筋はならぬといったら、ならぬ! ばってん、山ならば好きに住むがよい。ただし、この浜をつかうとなら、そんときは「カステラ」をわすれるでねーど。わかったら、さっさと出てかんか!」
そんなわけで、源左衛門と5人の子供たちは、鍋や釜とわずかな食料をかついで、夜の谷を登るしかなかった。
最初の何日間かは、草の上にむしろをしいて野宿した。毎日毎日、手足を血まみれにしながら草を刈り、草と木で小さな小屋を建て、雨水をため、夜闇にまぎれて船を出し、魚や貝をとった。わずかばかりの畑に植えた芋が育つと、囲炉裏端で編んだ籠やわらじとともに、海沿いの漁村に持っていき、貝や魚と交換する。アブに刺され、マムシかまれ、病気になっても医者を呼ぶこともできず、ときには木の根をかじりながら、一日一日をなんとか生きた。
「ああ、神様。夢を抱いて海を渡ったおらは、まちがっとったとやろうか。いまごろ、おやじたちはどうしとっとやろ?」
毎晩、寝床でもんもんと思う日々がつづく。源三郎にとって、ささやかな心の支えになったのは、天におわすご先祖様と、日に日にたくましくなっていく5人の子供たちだった。
このような苦難の日々から150年の後、この地に立派な教会が立ち、海沿いの漁村は滅びる。しかし、よもやそんな未来がくるとは思いもせずに、源三郎は大きな大きな鼻提灯をふくらませながら眠りについたのだった――。ぷうぅ~、パチン!(完)
***
シュワッチ!
はい、というわけで、この小さな半島を次なる暮しの地として選んだ潜伏キリシタンたちは、切り立った斜面を登り、物資を担ぎ上げて小屋を建て、山の中腹の痩せた土地を切り開いて、暮らしはじめたのでした。
いうまでもなく、これだけの急斜面の上に暮らすのは大変なことです。すぐ下に海が見えるのだけど、その海に出るためには、急な傾斜地を荷物を背負って何時間もかけて登り下りしなくてはなりません。いまのぼくたちのように遊びで山を登ったり下ったりしているのとはわけが違うんです。作物もあまりたくさんとれないし、なにより水を確保するのがたいへんでした。
しかし、なにはともあれ、こんなにも隔絶した場所で、絶望に負けず、自給自足的に生きる場所をつくれるというのは、本当に驚くべきことだと思います。人間というのは、ほんとうにすごい。そしてここに残る教会が、けっしてオブジェなんかではなく、「生活の必要」のために使われている「生きた教会」であることが、なんとも素敵だなと思います。
↑津和崎灯台から野崎島、小値賀島を望む。島がたくさんある風景は、瀬戸内海のようでもある。
「大曽教会」へ
半島の最北端には、津和崎灯台と小さな公園があり、海の向うに野崎島や小値賀島を望むことができます。
しばし景色を楽しんだあとでUターンし、途中、「ホテル・マルゲリータ」というおしゃれなリゾート施設で、窯焼きピッツァとパスタと焼き立てパン食べ放題のランチをとりながら、急速充電器で電気自動車に充電することにしました。たまにはこういうところもよいですね。このところ、あまりにもおいしい地魚ばかり食べ続けていたので、ひさしぶりに食べる粉ものイタリアンが、これまたなかなかおいしかったです。
さて、旅の最後に、半島の根元あたりにある「大曽教会」訪ねることにしました。
大曽教会は、1916年(大正5年)に完成。設計施工は、またしても鉄川与助です。
旧野首教会、青砂ヶ浦教会をへて、鉄川与助が建てた堂々たるレンガ造りの3廊構造で、教会特有のリブヴォールト天井をもっており、外壁のレンガに近寄ってみると、青砂ヶ浦教会と同じようにレンガの濃淡や凸凹で細やかな意匠を生み出しています。
さて。実際に五島列島を旅してみて思ったのですが、地図で想像するよりもひとつひとつの島が大きくて、道も曲がりくねっていて移動時間がかかります。
すべての教会をまわりたかったのですが、結局のところ、野崎島、小値賀島、中通島をめぐる3泊4日の旅ではかないませんでした。
でも、この列島に残る教会群は、潜伏キリシタンたちの強い思いと、少ない物資・技術で西洋建築をなんとか実現しようとした地元出身の若き大工棟梁・鉄川与助の刻苦精励によって残されたほんとうに奇跡的な建築遺産なのだということが、実感できました。
これまでは教会というと「結婚式の会場とかでしょ?」(パンパカパーン!)というくらいのイメージしかもっておりませんでしたが、いやはやほんとうにすみませんでした……。
共に生きていくための知恵
レンタカーを鯛の浦港の駐車場で返却し、午後5時に出る高速船で長崎に向かいました。旅の4日目。この日の夜の便で、長崎空港から羽田へ戻る予定だったからです。
↑高速船「びっぐあーす」。双胴式って、かっこいいですね。
青灰色にけぶる海をぼんやり見ながら思い出したのは、小瀬良教会の道路脇に立つ解説看板のことです。
あの爪楊枝のような半島で、潜伏キリシタン集落と漁民たちの集落は、それぞれ山の上と海沿いに、かなりの標高差を隔てて棲み分けていました。ときどき物々交換をしながらも、独立した別の共同体として、お互いに距離をおいて暮らしていたわけです。
小瀬良教会のほかにも、半島沿いには、鉄川与助が最初に建てた木造の教会である「冷水教会」(1907年完成)をはじめ、「大水教会」「赤波江教会」「中知教会」などの教会が点々とありました。そうした教会は、いずれも切り立った山の上のほうにあるのでした。
世界遺産登録で沸く中で、ともすれば「五島列島=潜伏キリシタン」というイメージを描いてしまいますが、五島列島には潜伏キリシタンたちが移住してくる以前から、さまざまな宗派の仏教や神道を信奉する住民が暮らしていました。
さらに歴史をさかのぼると、旧石器時代から何千年にもわたって、中国大陸や東南アジアからの来訪者、九州本土や壱岐対馬からの移民、遣唐使船から軍船まで、さまざまな人々が訪れ、そのつどこの列島に新たな刺激をもたらしてきました。いうなれば五島列島は「多様な文化のミックスジュース」みたいな空間なのかもしれません。
人が移動して、新しい人と古くからいる人が出会う。そうすると、Aさんの考え方と、Bさんの考え方が、どこかで必ずぶつかりますよね。
そのようなときに、人と人がうまくやっていくには、「適当な距離」もまた必要なのかもしれません。
とりわけ、すぐに解決方法がみつからない場合には、あせらず、まずは距離をおいたほうがいい。そのうち時間が解決してくれるわけですから。
明治初期の「五島崩れ」やリンチなどの悲しい歴史もあるのだけれど、だからこそ、ここには「記憶」が残っている。その記憶は「共に生きる」知恵でもあります。
そうした記憶や知恵をうまいこと読み取ることができれば、これから先、生きていくためのよき燃料になるかもしれません。人と人との間に生じる困難を、ほんのちょっとだけピースフルに乗り越えていくための。
「世界遺産だし教会でも見ておくかー。なんだかいい感じの古民家宿もあるし!」と軽いノリでやってきたわけですが、旅の最後までけっこうまじめなことを考えてしまった五島列島の旅でした。
↑長崎港に到着。このあとバスで空港に移動し、飛行機で東京へ。いずれまた、五島列島を訪れたいと思っております。
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