世界初、ブラインド・セーリングで無寄港太平洋横断に成功!
ブラインド・セーリングというスポーツを知っていますか? 視覚障害者が、晴眼者(目の見える人)から風向きなどの情報を聞きながら、ヨットの舵と帆を操って航行するという競技です。岩本光弘さんは、このブラインド・セーリングの第一人者。2019年には、米国のサンディエゴから日本の福島県小名浜港まで、ブラインド・セーリングでの無寄港太平洋横断に世界で初めて成功。その快挙は、冒険家の故・植村直己さんを記念する2019植村直己冒険賞にも選ばれました。
岩本さんがヨットと出会ったのは、2002年、35歳の時。セーリング経験のあった妻のキャレンさんの誘いで、レンタルヨットを体験したのがきっかけでした。大海原を思いのままに航行できるヨットの魅力に惹きつけられ、ブラインド・セーリングの世界大会に日本代表として出場するほど腕を磨いた岩本さんは、「ブラインド・セーリングで太平洋を横断する」という壮大な冒険を思い描くようになりました。
「家内が最初に僕をセーリングに誘ったので、僕がヨットで冒険したいと言っても、彼女は文句を言えなかったんですよ(笑)」
最初の挑戦で味わった大きな挫折。その試練にも意味はあった
しかし、2013年に初めて太平洋横断に挑んだ時は、出発して6日後にヨットがクジラと衝突。浸水する船体から膨張式救命いかだに乗り移り、10時間漂流した後、海上自衛隊に救助されるという事態になってしまいました。その大きな挫折に、一時は海に近づくこともできなくなったと岩本さんは言います。
「でも、こういう試練があること自体に、意味があるんじゃないかと。高校生の頃に視力を完全に失ったことにも、クジラと衝突して遭難したことにも、きっと意味があるはず。その意味を探して、挑戦し続けなければ、と思うようになりました」
最初の挑戦から6年後、岩本さんは、米国人のダグラス・スミスさんとペアを組んで、再びブラインド・セーリングでの太平洋横断に挑むことになりました。二人の乗るヨット「ドリーム・ウィーバー」は、2019年2月25日にサンディエゴを出港。いったん南に下り、それから貿易風に乗って、西へと針路を取ります。日付変更線を越えるまでは風の弱い日が多く、我慢の日々が続いたそうです。
しかし、航海の後半は、逆に低気圧や前線に10回以上遭遇するなど、荒天に悩まされるようになります。時には、波の高さが6メートル、風速が22メートルにも達する中を航行しなければならなかったそうです。
「あともう少しで日本というところまで来た時に、台風並みに大きな低気圧に阻まれてしまって、南に100マイル以上も逆戻りしなければなりませんでした。あの時が、精神的に一番つらかったですね」
日本近海を航行した最後の三日間は、ほかの漁船などに衝突しないように、慎重に舵を取る必要がありました。ナビに現れる他船の情報の確認には、ダグラスさんの協力がとりわけ不可欠だったと岩本さんは言います。二人の緊密なチームワークが功を奏し、2019年4月20日、サンディエゴを出港してから54日間3時間4分後に、「ドリーム・ウィーバー」は福島県小名浜港に到着。航海距離1万3000キロに及ぶ大航海となりました。
太平洋に沈む夕陽に、岩本さんが涙を流した理由
「航海中のある日、太平洋に夕陽が沈んでいく時に、涙がポロポロ出てきたことがありました。自分はそのきれいな夕陽を見ることができない、目が見えていた頃に戻れたら、というくやしさからではありません。失明した時に、自殺しなくてよかった。最初の挑戦で遭難した後、ダグや仲間たちと出会って、自分はまた冒険に挑戦できている。そのことへの感謝で、涙がこぼれたんです。あきらめずに、生きていてよかった。この冒険の中で感じたそういう思いを、これからたくさんの人に伝えていけたらと思っています」
現在はサンディエゴで、指鍼術療法の治療院を経営している岩本さん。今後はどのような冒険に挑戦するのかという質問に、「去年はあまり仕事をしていなかったので、家内に、稼げ!と言われています(笑)」と笑顔で答えた後、こう続けました。
「でも、時間が経ったら、また新たな冒険心が出てくるだろうなと思っています。僕にとって冒険とは、やりたいことをやる、ということです。そういう思いで、自分に素直に生きていきたいなあと。何かをやってみたいと思い立ったら、目が見えないことをやらない理由にせず、支えてくれる方々とまたタッグを組んで、挑戦し続けたいですね」
※取材:山本高樹