世界的な聖地・パワースポット、セドナに住んで24年になる写心家・NANAさんは、セドナの大自然をガイドしながら、住んでいる人だけが触れられる四季折々のセドナの大自然を写真に収めています。 NANAさんは、どうしてセドナを撮影する写心家になったのか?セドナで人生の岐路に立ったときに気づいた対処法は、日本に住んでいる人にも参考になります。
――NANAさんは、若いうちから日本を出たそうですが「人生の岐路」では、どうやって進路を決めてきたんですか?
NANA そうですねえ・・・・。自分で進路を決めたというより、導かれたような感覚ですね。私は小さい頃から絵を描くのが好きだったので、美大を目指していたんですが、美大に行くための予備校の先生から「君の魂は自由すぎるから、今の日本の美大に行ったら、君の魂は殺されてしまうよ」と言われたんです。1冊の絵本がきっかけで高2からスウェーデン語を勉強していたので、「だったら、スウェーデンの美術学校に行っちゃおう」と思ったんですね(笑)。その当時は、日本からスウェーデンに留学する人なんて、ほとんどいなかったですけど。
4年くらいスウェーデンにいた後、シベリア鉄道でモンゴルから中国を旅しながら日本に戻ってきたんですが、帰ってきたら、また日本を出たいと思ったんです。
それで「どこに行っても食べていけるように」と、日本語教師の資格を取ることにしました。ですが、その語学学校で英語教師をしていたアメリカ人と結婚してしまった。その後、東京で子どもを二人産んだのですが、1996年にアメリカに渡って、その翌年にセドナに引っ越してきたんです。正直言って、結婚した頃は、全くアメリカには興味がなかったんです(笑)。
――セドナに住んでからは、どんな生活をしていたんですか?
NANA はじめは専業主婦でしたが、「子どもたちの学校をどうしようか?」と考えていた時に、友達から誘われて、シュタイナー教育の学校を見学に行きました。とても気に入ったんですが、その学校から「子どもたちに日本語を教えてくれないか」という話をいただいて、思わぬところで日本語教師の資格が役立ちました。子どもに関わるのは好きだったので、自分の子どもたちが通う学校の先生になったんです。その当時は、ときどき日本から来る観光客やアメリカ人ガイドの通訳、サイキックリーディングなどの通訳を頼まれてやっていました。
私は子どもの頃から野草が好きだったので、どこに行っても植物の観察やスケッチをしたり植物図鑑でを調べたりしていました。それで、セドナに住み始めて2年後の99年に、北アリゾナ大学の教授が「地元の植物で生き延びる」というワークショップを開催したことがあって、とても興味が湧きました。ちょうど「2000年問題(2000年になった瞬間にすべてのコンピュータが止まって食べるものに困るようになると言われた)が起こると言われていて、食べられる植物を知るワークショップでしたが、私は、それよりもアリゾナの植物やこの辺に住んでいた原住民の人たちがどんな暮らしをしていたかを知りたくて参加したんです。
――そのワークショップをきっかけに大自然に触れていったわけですね?
NANA アリゾナの州都のフェニックスからセドナに引っ越した理由が、大自然の元で暮らしたい、ということだったので、家族で毎週末はハイキングに行っていました。ですから、それがきっかけで大自然に触れ出したわけではありませんが、そのワークショップに参加して、こんなに乾燥したアリゾナの自然の中で、古の人々がどうやって生き延びてきたかということに、ほんの少し触れられた気がしました。
――セドナの大自然に触れて、自分が変わったと感じることはありますか?
NANA セドナの自然は、レッドロックと呼ばれる赤い岩が街を囲んでいます。地球の歴史がむき出しになっているような「ザ・地球」を感じて、「ひとつの生命としての自分」という意識になるんじゃないか、と思います。おのずと地球という生命体の中の自分の命を感じずにはいられなくなって、自然に自分と向き合わされて、本当の自分が出て来てしまうんですね。
都会にいるといろんな情報が溢れているから、どうしても意識が外側に向かうでしょう。だけど、セドナでは地球にダイレクトに触れて地球の命を感じられるから、自分でも知らずに被っていた仮面がはがれるのかもしれません。国籍や地域を超えた一つの命としての原初に戻っていくような感覚があります。
それは、自分の内に向かっていく感覚と言っていいかもしれません。セドナでネイティブの人たちの儀式に参加すると、パイプセレモニーでもスウェットロッジでも自分の内側を見つめる祈りの体験をします。ネイティブの儀式は、常に父なる天、母なる大地、そして繋がるすべての命に感謝します。それに加えて東西南北の4方角、7つ目が自分の命の内に向かっていく方角で、そのすべての方向に感謝します。すべてとの繋がりの感覚を持ちながら、自分の内に向かっていく、という感覚です。
だから、セドナの自然に触れて自分が変わったというよりも、セドナの自然に触れることで、「本来の自分に正直に生きてもいいんだ」と、改めて自分に許せた、ということかもしれません。流れに身を任せると道が見えてくる、と改めて思います。
セドナに来ると、「自分に嘘をついていた」とわかる?
NANA セドナは「結婚の町」とも「離婚の町」とも言われます。自分を見つめ直して、改めてパートナーと仲良くなったり、「この人との関係は健康的ではない、自分が今、一緒にいるべき人ではない」と気づいて別れたりするからです。私も例に洩れず、そんな体験をしました。どれだけ、結婚生活の中で自分を抑え込んできたのかが、わかってしまったんですね。1999年のワークショップに参加した頃は、自分が離婚するなんて考えていなかったし、ツアーガイドになるとも思っていませんでした。
そんな私がツアーガイドの仕事を始めたのは、2004年に離婚してシングルマザーで食べていかなきゃならなくなったからです。地元のツアー会社に電話で『そちらで働かせてもらえませんか?』と問い合わせても断られて、「じゃ、自分でやろう!」と一人で始めることにしました。
断られた時は「そっか、これって自分でやれっていうチャンスかも!」と思いました。「人に雇われないで自分でやる方が楽しい」と発想の転換をしたんですね。植物や地質学とかネイティブの歴史が好きだったから、その知識を活かして自分でツアーガイドができるかな、と思ったんですが、その頃はインターネットが普及していないから、本当にクチコミのお客さんだけでした。
――写真を撮るようになったのは、何がきっかけだったんですか?
NANA 写真集『セドナ・奇跡の大地へ』の出版がきっかけでした。その当時、私はまともなカメラすら持っていませんでした。友達が写真家の桐野伴秋さんと一緒にセドナにいらした時に彼の写真に惚れ込んで、「一緒にフォトエッセイ集を出しませんか?」と、飛行機代も出せないのに写真を撮って欲しい、とお願いしたんです。そうしたら、本当に来てくれたので、彼が行きたい場所はもちろん、私が撮ってほしい場所に桐野さんを連れ回しました(笑)。でも、撮影を助手のように側で見ているうちに、「私、セドナに住んでるのに何やってるの? 自分で撮ればいいんじゃない!」と閃いて、それから写真を撮り始めたんです。
それまでは自分で絵を描いていたから、写真を撮るという発想がなかったんですね。でも、桐野さんの写真を見て「アートとしての写真を撮りたい」と思うようになりました。そしてセドナの自然の中で写真を撮っているうちに、私たちは母なるガイアからこんなにも愛されている存在なのだということを、セドナの自然を通して伝えていきたい、という想いが募ってきたんです。
日本はコロナ禍で女性や若者の自殺者も増えていると聞いて、私もとても哀しく想います。こんな時だからこそ、自分の内に在る愛されている命を感じてほしい。そこに「自分の軸」を見出して欲しいと思います。
内なる自分に気づくと、他人と比較せずに生きられる。
――自分の軸というのは、具体的にはどんなことですか?
NANA それはまず、自分が唯一無二の存在であることに気づくことから始まると思います。たとえ肉体を去って、魂の旅路は続いたとしても、この肉体を持って生きている自分は、この宇宙の歴史が始まって以来、過去にも未来にも、存在しない命なんだということ。それってものすごいことじゃないですか? 私たちは誰でも、ものすごいミラクルな存在なわけです。
多くの人にとって、親に言われてきたことや上司に言われてきた通りに生きることが、世の中で調和を持って生きる処世術だと教え込まれてきたかもしれません。本音と建前的な日本の文化的な気候風土もあるし、日本には村八分という言葉さえありますよね。でも、今回のコロナ禍で、自分の内面を見つめ直す体験をする人が増えたと思います。
コロナのパンデミックは、自分がいただいている命に対する徹底的な感謝に気づいていく機会を与えてくれたのではないでしょうか。自分の内を見つめることは、自分のことしか考えないエゴではなく、「自分の命の尊さ」に気づくこと。自分のことしか見えなくなることと混同してはいけないですよね。
多くの人が人生を考えなきゃならない状況の中で、自分のことだけを考えるエゴで生きるのか、それとも、自分の内側を見つめて「すべての命とつながっている自分」に気づくのかとでは、全く違います。
ネイティブ的な発想では、自分の命は他のすべての生命の中で生かされている命であり「命としての自分がただそこにある」だけで、そこにはマザーネイチャーに対する謙虚さがあります。
私たちは、他人や外の情報に安易に答えを求める傾向があるけれど、誰の人生にも方程式はないわけでしょう? 私の体験は私だけのもので、全人類70億分の1の経験で、他の人と比べたりはできません。
「こうあるべき」という他人に押し付けられた基準で生きていると、自分のことしか考えられなくなって、世界は狭くなります。それは自分の内を見つめることではないんです。自分の軸は、「自分という肉体をもった存在が唯一無二のかけがえのない命である」ということに気づいた究極の感謝の中に在るんだと想います。
――唯一無二の存在である自分に気づけば、人と自分を比較しなくなりますね?
NANA そうなんです。容姿、社会的地位など、私たちはどうしても人と自分を比較するでしょう。どれだけ人から認められるか、どれだけお金を儲けられるか、そういったことが成功の基準になっていると思います。でも、本当の成功ってなんでしょう? 自分らしい自分を生きること以上に大きな成功ってないんじゃないでしょうか? 人と比較する必要なんかないんです。
サボテンは薔薇の花にはなれない。乾燥した砂漠の中で咲くサボテンの花を見ると、本当に感動します。そんな過酷な条件の中で文句も言わず、命の限りを尽くして花を咲かせるサボテンは、この上なく美しい。薔薇と比較する意味などありますか?道端のタンポポだって、アスファルトの割れ目から芽を出し、命を尽くして生きている。可愛いし、愛おしいじゃないですか。お店で高額な値段で売られる薔薇の花は成功していて、道端のタンポポは失敗してる、ってわけじゃないでしょう?砂漠のサボテンも、花壇の薔薇も、道端のタンポポも、それぞれの命を生きている、ということに過ぎません。
本当に自分の命を尊ぶということは、傲慢になることではないんです。謙虚さも自分を卑下することではありません。自分のいただいている命をありがたいと感謝することは、自分の命を尊ぶのと同時に、すべての命の繋がりの中で生かされていることへの謙虚さを示すことです。そうできた時、私たちは、人と自分を比較するのではなく、唯一無二の自分を生き始めることができるようになるんです。
自然から切り離されると、自分自身からも切り離されてしまいます。でも、祈りによって、グレイトスピリットと天と地と自分の命を含むすべての命に感謝できた時、その繋がりを取り戻すことができると想います。そういう祈りは、都会で生きる人にとっても、自分の命の大切さをもう一度思い出すきっかけになるのではないでしょうか。
――日本人の祈りとネイティブの人の祈りは、ずいぶん在り方が違いますね。
NANA 祈りの本質は、究極的には感謝だと思います。たとえば「いただきます」、「ごちそうさま」というような日本の習慣の言葉の中には、祈りが込められていると思います。ただ、現代の日本では「祈り」と「願掛け」とが混同しているのではないでしょうか?
ネイティブの人たちの祈りは、グレイト・スピリットへの感謝に始まり、感謝で終わります。東西南北のスピリットに感謝することは、その方向に象徴されるエネルギーとつながっていくことです。春夏秋冬、朝昼夕夜、そして、人間だけではなく、すべての命の誕生、成長期、熟年期、老年期のエネルギーに繋がって、そこから与えられる叡智と恵みに敬意を表し、感謝することで、すべての命とつながっていく行為がネイティブの祈りだと思います。
農耕部族である日本人も、本来は、そういうネイティブ的な祈りを持っていたはずです。だからこそ、すべての命への感謝を込めて「いただきます」と言い、「ごちそうさま」と言うのでしょう。本来、初詣というのは、その年に初めて神様に詣でて、感謝をお伝えすることだったのではないでしょうか。でも今は、ご利益を求めることが祈りだと思い込んでしまったのかもしれません。願掛けが悪いことだとは思いませんが、そこに、神様、あるいは、グレートスピリットと呼んでもいい人智では量り知れない大いなる力に対する絶対的なリスペクトと感謝があるかどうかが、大切ではないでしょうか。
自分がいただいている命には、ものすごい力がある。
――日本では、自分の生命力を感じにくくなっているかもしれないですね。
NANA 日本に限らず、現代の物質文明に生きる世界中の人々に共通していることのように想います。自分の生命力を感じられない、ということは、他の命を感じられない、ということでもあると思うんです。スーパーに行けば、一年中、さまざまな野菜が買えるし、季節感もなくなっています。私も、セドナの雄大な自然に囲まれて暮らしているとはいえ、自分で農作物を作っているわけではなく、スーパーで買い物しているわけです。
ですから、他人事として言っているわけではありません。私はヴィーガンなので、動物性のものは食べませんが、肉や魚も切り身になっている状態で売っていて、動物の命も感じられない。自分のペットは生き物で、牛や豚や鶏は生き物ではなく、物のような扱いです。家族も死を迎えるときは、ほとんど病院でしょう。しかも核家族化していて、子どもが祖父母の死に立ち会うこともほとんどなくなっています。
「自然」という言葉ひとつ考えても、自分が自然と切り離された状態にある現代人にとって自然は特別な状態で、自分自身も自然な状態でなくなっている。ホピの伝承の中に出てくるバランスを崩した世界=コヤニツカッティが当たり前になっていて、私たちは、バランスが崩れた世界に生きていることにすら気づいていないんです。
――現代の生活で、自分の生命力を感じるためにはどうしたらいいのでしょうか?
NANA それは、自分の命が地球という全体の一部として生かされている、という感覚を取り戻すことではないでしょうか。セドナの岩山の上に大の字になって寝そべっていると、個としての自分が消えていく感覚になります。自分という個体が無くなって、母なるガイアの一部だと感じる時に地球そのものが一つの生命体として感じられて、自分がガイアの細胞の一つになったような感じがするんです。自分というよりも、大いなる力というか、エネルギーというか、アインシュタインが「サムシング・グレート」と呼んだ力の一部としての自分の命を感じることができるんです。
自分という個が無くなった感覚の時に自分の命を感じるなんて、なんだか逆説的に思われるかもしれませんが。その時に、同時にその大いなる力が自分の命の中に宿っていることを感じるんです。自分と繋がる自然はどんなところでもいいんです。山でも、海でも、森でも、雪原でも、砂漠でも・・・。あるいは、たった一本の木に触れるだけでもいいんです。大木も元は小さな種だったことを想って、その生命力を感じてみてください。きっと「サムシング・グレート」あるいは「グレートスピリット」あるいは「神」と呼んでもいい、そういった人智が及ばない圧倒的な力を感じることができるでしょう。
小さな一つの種には、大木になるだけの生命エネルギーが宿っています。それと同じ命の力が、私たち一人一人の中にも宿っているんです。自分をぞういう一つの命として感じることができれば、「サムシング・グレート」の力が自分の内に宿っているんだ、ということを、謙虚な気持ちで受け取ることができると思います。それこそが、自分の命を尊ぶことなんです。そして自分の命を尊ぶことができる世界はすべての命を尊ぶ世界であり、調和が取れた世界であるということです。そのとき私たちは、「生きている」というだけで、世界の創造に関与しているんです。
自然の力につながった時、あなたがどんなに愛されている存在なのか、どんなにミラクルな存在なのか、きっと感じることができると思います。あなたの命に宿っている奇跡の力を信じてあげてください。私たち、一人一人は小さな存在かもしれない。でも、力のない存在ではないんです。人生の岐路に立った時は、自然に触れて、是非、そのことを想い出してみて欲しいと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◯ NANA プロフィール
東京生まれ。高校卒業後、スウェーデンに渡り、美術学校へ。その後、ストックホルム大学で、スウェーデン語と民族学を学ぶ。帰国後、アメリカ人と結婚し、アメリカ、アリゾナ州セドナに移り住む。セドナの自然を案内しながら、セドナ、そして北アリゾナの自然を撮り続けている。その他、ウエディング写真、ホームページ用写真、記念写真の撮影も行いながら、大自然の美しさを通して、命の尊さを伝えたいと想っている。写心(写真)家・ガイドの他に、誘導瞑想、エネルギーワーク、地元のサイキックなどのセッションの通訳、そして自らもヒューマンデザイン・リーディングというセッションを行う。
NANAさんのHPは、sedonana.com
インスタグラムは、sedonanaworld
写真/NANA
構成/ 尾崎 靖(エディトリアル・ディレクター)