奇跡の晴天!きらめく金剛山山頂
大和葛城山と山麓、そして金剛山と、修験道の祖・役小角の気配を求めて「文化系アウトドア」中!前回からいよいよ金剛山へと足を進めました。詳しくは前回もごらんください! https://www.bepal.net/trip/tripinjapan/55946
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モヤに包まれ、ただならぬ気配満点の国見城址(展望広場)から、急ぎ足で宿に戻りました。この日宿泊する「香楠荘」は、ロープウェイ山頂駅から徒歩10分ほどのところにある山荘です。私が訪れたのは11月の初め。だいぶ冷えてしまった身体を古代ひのきのお風呂でしっかり温め、お夕飯の鴨鍋を限界までおなかに詰め込んで、ぬくぬくと眠りにつきました。
翌朝、ダメもとで日の出の時間のちょっと前に起床し、宿の外へ出てみると、思わず声を挙げたくなるような美しい空が……!
私が撮った写真では、とても表現できませんが、一帯に壮大な雲海が広がっています。宿の横の広場から見えるこの光景は、方角からすると吉野の山々でしょうか。
金剛山山頂からの日の出。本当に晴れちゃいました。
あっという間に太陽が上がると、現れたのは、びっくりするほど美しい青空です。
鮮やかな空と香楠荘。下方には大阪府で最も標高の高い「ちはや園地キャンプBBQ場」もあります。
「日ごろの行ないがいいからですかね」
晴れてよかったですね、と声をかけてくれたお宿のスタッフに、そう言って微笑む私。朝ご飯も山盛りいただいて、元気いっぱいに外へ飛び出しました。
深読みすると見えてくる「時間的スケール感」の壮大さ
前日歩いているので、だいたい何がどこにあるのかわかりますし、なんといっても明るくなった山道はとても歩きやすく、すいすいと進んでいきます。
出迎え不動。参拝する人々を守護してくれるという。
道中には、出迎え不動や役小角が法華経を奉納したという経塚(葛城二十八宿と呼びます)のうちの一つ・第二十一経塚、役小角が「法起菩薩(ほうきぼさつ)」という仏様を感得(かんとく)したとされる湧出岳(ゆうしゅつだけ)、また、雄略(ゆうりゃく)天皇が一言主神(ひとことぬしのかみ)に会いまみえたという場所・矢刺(やさし)神社にも参拝しつつ、葛木(かつらぎ)神社へとやってきました。
まず、しっかりと拝観してご挨拶。そしてここで、「文化系アウトドア」スイッチオン。
「由緒書き」、神社に行くと見かけますね。神社の歴史や言い伝え、祀られている神様の名前が書いてある説明書きです。「由緒書き」にあるお話には、おとぎ話のような「ありえない」お話も多いと思います。しかし、そのありえなさを「昔の話だからなあ」と読み飛ばさないで、コマゴマと引っかかりながら読んでみましょう。これぞまさに「深読み力」。
拝殿脇にある「由緒書き」をさっそく読んでみます。要約してみると……
●元は高天山(たかまやま)と言ったが、神武(じんむ)天皇(『古事記』『日本書紀』によると紀元前7世紀頃)が大和を平定した時、原住民を葛を使って制圧した。それが葛城の語源になった。
●神社の創始は約2000年前の崇神(すじん)天皇の頃で、最初の主祭神は「事代主命(ことしろぬし)」だった。
●雄略天皇(5世紀後半頃?)が金剛山で狩りをした時、「葛木一言主神」が出現し、『善きことも悪しきことも一言、ただ一言のたまえばかなう神一言主である』と宣言したため、以来主祭神は葛木一言主大神になった。
なるほど。すると原住民は「高天山」と呼んでいたんですね。そして神社自体の創始は、2000年前だというわけですね。ものすごく昔ですよ!!
あれれ? 最初に祀られていた神様は「事代主」で、「一言主」じゃないと……。ちなみに事代主は、大国主命(おおくにぬしのみこと)の息子さんで、国つ神(天皇家の祖先がやってくる前から日本の国土を治めていた土着の神様のこと)代表みたいな神様です。
それでもって、「一言主」の存在が認識されたのは5世紀頃。そしてここで主祭神の名前が「一言主神」に確定したと。こういうことでしょうか。
それにしても、この由緒書きで語られる「時間的スケール感」、すごいです! 神話的存在と考えられることが多い初代天皇・神武天皇のエピソードも含めたら、2500年(!)くらいの歴史を、さらりと説明しちゃってるんですね。
神も仏も人も、自然の中にともに「在る」
――2500年……。私は、思わずそう呟いて、溜息をつきました。
史実かどうか私にはわかりません。しかしここで語られるその長い時の流れを思うと、お社の優しいたたずまいが、ただならぬものに感じられます。何はともあれ、とてつもなく古いものを今に伝える特別な場所なんだと改めて感じ、私は思わず姿勢を正しました。
森のように見えるところ(写真右方)にご神体の山頂がある。
この由緒書きにあるストーリーの中で、最も大きな転換点は、主祭神の名前が変わったことでしょう。それまでお祀りしていたのは「事代主」だったのに、いきなり「一言主」に変更ですから。何らか大きな変化がなければ、こうはならないんじゃないでしょうか。「事代主の別名が一言主」と説明されることが多いようなんですが、ちょっとつじつまあわせのような気がしてしまいます。
大きな変化って、いったい何だったんでしょうね……。正直言って、わかりません。でも、ハッピーな理由があって変更した、ということではなかったんじゃないかと思います。
「歴史」は勝者によって、あるいは為政者にとって都合がいいように紡がれてしまうものです。しかし、民間の言い伝えや物語の中には正史では伝えられない真実が隠されているかもしれません。大っぴらには言えない大切なことを後世の人に伝えたいと考えて、あえて不自然なストーリーを残したのかもしれない。あるいは、つじつまの合わないストーリーの場合、重要なキーワードがわからなくなってしまったからじゃないか?と考えてみてもいいかもしれません。落雷や地震、あるいは戦乱に巻き込まれて、史料がなくなってしまった。そんなことも考えられます。また、可能性としてさらに簡単に、そして全国的に共通して想像できるのは、明治時代に政府が行なった神仏分離令による余波が原因じゃないか、ということです。
ご存じのように、明治以前の日本では、神社もお寺も分かちがたく存在していました。例えば、ある神様は、「お経を唱えて、自分を供養してほしい」なんてお告げをしたりします。そのお告げを聞いたお坊さんは、神様を慰めるためのお寺を建立し、神様のためにお経をあげるのです。あるいは、神社のご神体が仏像なんて場合もあります。矛盾しているように思われるかもしれませんが、日本の長い歴史の中では、このようなことは矛盾しないこととして存在してきたのです。
実はこの葛木神社も、今でこそ単独の神社ですが、明治以前は、この先にある「転法輪寺」の鎮守社だったそうです。葛木神社の神様「一言主神」が、転法輪寺や山を巡る人々を守護する役割を担ってきたのです。また転法輪寺も葛木神社の神様のためにお経をあげ、ともにお祀りしてきたんですね。
私が葛城山系を旅してきた動機である「役小角」を祖とする「修験道」は、そんな世界観を支える担い手、導き手でした。自然の中に神も仏も「在る」と感じ、自分自身も自然の一部となって、神仏の一部となる……。そんな世界観を伝えてきた「修験道」という教えが、今また注目を集めています。私が「役小角」をもっと知りたいと思ったのも、自然豊かなこの列島に暮らす私たちが失ってはいけない大切なものを繫いできた大きな潮流の、「始まりの人」だからなのです。
(Vol.6に続く)
プロフィール
武藤郁子 むとういくこ
フリーライター兼編集者。出版社を経て独立。文化系アウトドアサイト「ありをりある.com」を開設、ありをる企画制作所を設立する。現在は『本所おけら長屋』シリーズ(PHP文芸文庫)など、時代小説や歴史系小説の編集者として、またライターとして活動しつつ、歴史や神仏、自然を通して、本質的な美、古い記憶に少しでも触れたいと旅を続けている。
★共著で書き下ろした『今を生きるための密教』(天夢人刊)が12月17日に刊行されました!ぜひお手に取ってみてください。よろしくお願いいたします~!