前前回・前回と、最強パワースポットとして話題の御岩(おいわ)神社を、兄貴分ライター本田不二雄氏と文化系アウトドア旅中! ご神体・御岩山に登拝、意気揚々と下山します。
縄文時代どころか、カンブリア紀!?
そういえば、御岩山からは縄文時代の遺跡が発見されていたはずです。どのあたりにあったのかな、とブツブツ言いながらキョロキョロしていると、ボランティアガイドのNさんが――。
「縄文時代の遺跡は、この場所ではないと思いますが、数か所発見されていたようです。そうそう、古いと言えば、御岩山は日本最古の地層から成り立っていると聞きました。5億年前のカンブリア紀の地層なんだそうですよ」
カンブリア紀?! 縄文時代でも十分以上に古いと思っていましたけど、人類史の枠を大きく超えちゃいました。ということは、冒頭写真の巨石も5億年前の……。スケールが大きすぎる!
私は思わず手を合わせました。人が誕生し、日本列島に人が現れてから今に至るまで、長い時の中で多くの人が、同じように手を合わせたでしょう。5億年前の巨石なんだと知らなくても、昔の人は感覚が敏感ですから、この存在の凄さを実感として理解したのではないでしょうか。
御岩山中腹に再登場した「立速日男命」
はっと気が付いたら、だいぶ日が傾いてきました。少し先を急いだほうがよさそうです。御岩山山頂付近からぐるりと巡り、帰りは裏参道から下ります。
しばらくすると、左手にふっと開けたスギ林の中に出たかと思ったら、一気に雰囲気が変化しました。
「薩都(さと)神社中宮です。立速日男命(たちはやひをのみこと)をお祀りしております。あたたかくなるとこの辺り一面が苔におおわれるんですよ」
あら? 御岩山のかびれ神宮にもお祀りされていた「立速日男命」が再び登場しました。こちらは1柱だけで祀りされてるんですね。お社はまだ新しそうですが、その社殿を中心として、澄んだ空気がこの一帯をシンと鎮まらせているような……。
水戸の黄門さん命名「御岩山権現(ごんげん)」
下山すると、社務所前で巫女のSさんと、宮司のO師が待っていてくださいました。
「なかなか戻ってこないから、心配しちゃいましたよ。さあ少し休んで行って下さい」
そう言うとO師は、ストーブの前へといざなってくださいます。美味しいカフェラテをいただきながら、私たちはここぞとばかりに質問攻め。私はまず、斎神社で疑問に感じたこと――大日如来と阿弥陀如来が祀られているのはなぜか――について質問します。
「弊社は、水戸藩の初代藩主であった徳川頼房公が、出羽三山を勧請し、以来水戸藩の祈願所となりました。そして水戸黄門として有名な光圀公により、「御岩山権現」とお呼びするようになったと聞いています」
突然飛び出してきましたよ、「出羽三山」というキーワード。出羽三山は羽黒山・月山・湯殿山のことで、山形県にあります。今も修験道の北の中心地として有名ですね。ちなみに、「権現」というのは、仏教のほとけが、人を救うために、日本の神に姿を変えてあらわれることを言います。この考え方は「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」と言って、日本の神仏習合はこの説によっています。出羽三山の場合、「出羽三所権現」とも言い、湯殿山大権現の本地仏(本体)は大日如来、月山は阿弥陀如来、羽黒山は聖観音菩薩です。
「御岩山を湯殿山に見立てたことから、大日如来がお祀りされました。現在、御岩神社がある場所に、大日堂があったと伝わっています」
だから今も大日如来がお祀りされているんですね。斎神社にお祀りされている5柱のうちの2柱・八衢比古神(やちまたひこのかみ)・八衢比賣神(やちまたひめのかみ)についてもお聞きすると――。
「八衢比古神・八衢比賣神は、道祖神の原型である岐(くなど)の神です。『古事記』などで伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が黄泉の国(あの世)から戻ってきて、禊(みそぎ)をした時に生じた道俣神(ちまたのかみ)と同体と考えられます。私はそういう意味でも、この場所は《あの世》と《この世》に関わる場所だったんだろう、と考えているんですよ」
なるほどなるほど……。やはりここは境目の意味を持つ場所なんですね。阿弥陀如来は月山大権現の本持仏かもしれませんが、やっぱり死者を守護するような意味合いで、この場所に安置されたのかもしれませんね。
御岩山の最も根幹になる神とは
私の素朴な質問の後には、本田大兄ならではの深い問いかけが続きます。気さくに応じておられるO師の様子を見て、私も再びモゾモゾし始めしました。
「武藤さんも聞きたいことがあったら、どうぞ」
O師の優しい誘い水に、私はここぞとばかりにかぶりつきます。
「あの、本当にたくさんの神仏がお祀りされていますが、……根幹になる神さまをあえて1柱あげるとしたら、どなたになられるんでしょうか!?」
「そうですね。それはやはり、立速日男命さまということになるでしょうね」
やっぱり!! 私もそうじゃないかなあと思ってたんです! ……というか、誰でも気づきますね。山中でも特に重要なお社である「かびれ神宮」と「薩都神社中宮」で、大切にお祀りされているんですから――。
「いちばん古い記録で、御岩山に降り立った最初の神さまですし、元もとお祀りしていたことは間違いありません。それに、お祀りしているのはかびれ神宮と薩都神社中宮だけではないんです。御岩神社でもお祀りしていますよ」
御岩神社(総体としての御岩神社ではなく、境内のお社であるほうの御岩神社)には26柱もの神々を祀られていると聞いて驚きすぎて、そのことまで頭がまわりませんでした。しかし、そうなると、ご神体である御岩山とは――。
「そう。御岩山は巨大な磐座で、弊社のご神体です。そしてその御岩山と立速日男命さまは同体と考えていいと思います」
私はO師のお言葉を聞いて、思わず何度もうなずきました。カンブリア紀の岩だという巨大な岩山は、とても力強い印象です。石目が詰まっていてうねるような勢いがあり、角度によって光る石の層がところどころにみてとれ、重厚な華やかさも感じました。そんな御岩山と、立速日男命という男の神さまのイメージ、というか気配はとてもよく合致している気がします。
これからの「神仏習合」のかたち
そんなことを考えていたらふと、古くて強い(でも根はやさしい)男の神さまがどっしりと坐っていて、その体の周りに、いろんな神仏がよりついて、一休みしているようなイメージが浮かびました。子どもっぽい妄想ですが、そんなに間違ってないんじゃないかな、と一人頷く私。なんといってもカンブリア紀からですからね、筋金入りの安定感、安心感ですよ。
御岩山を巡る神仏習合の物語については、非常に重層的で複雑です。その歴史を追っていくだけでも何冊も本が書けてしまいそうなのですが、どの時代でも一貫して変わらなかったのは、多くの神仏をお祀りしていた、ということでしょう。しかし、明治の神仏分離令は、御岩神社にも深い影を落としました。仏教関連のお堂はその時にほとんど失われてしまったのです。
しかし、歴代の宮司さまと氏子の皆さんは頑張りました。実は、仁王像が安置された楼門も、平成3年に再建したものだそうで(仁王像は江戸時代のものを大事に保管されていたとのこと)、今も古い絵図や文書を見ながら、少しずつ往時の姿に再建しようとされているそうです。
「斎神社の大日堂も建て直すんですよ。六角形のお堂になる予定です。昔の絵図にそのような形のお堂があったわけではありません。しかし、私は大日如来をお祀りするなら、やはり仏教的なデザインがふさわしいと考えました。本当は八角にしたかったんですが、スペースの問題で難しくて、それなら六角堂にと……。仏教寺院で八角堂を円堂と言いますが、そのイメージに近づけたかったんです」
すると、鳥居の左手に、より仏教的なデザインの大日堂がお目見えすることになります。ますます神仏習合であることがわかりやすくなりますね。
「――神も仏も。それが弊社の最も自然な形です。私は宮司ですが、そのことをこれからも大切にしたいのです」
O師はそう言うと、にっこりと笑いました。私はその言葉に、丹念に歴史を振り返りながらも、それだけにとどまらず、前へ進もうとしている意志の力を感じました。本質をつかみ、これからの信仰のかたちをつくろうとされている――。これこそ、これからの時代にふさわしい「神仏習合」ではないでしょうか。
はっと気が付くと、周囲は真っ暗です。私たちは長居を詫び、慌ててバス停へと向かいます。バスに乗り込んで、一息つくと、おなかがぐうっとなりました。そういえば、今日はお昼を食べるのを忘れていました。
「それにしても、まさかカンブリア紀まで登場するとはなあ」
本田大兄は、そう言うと大きく唸ります。私は、完全に頭のキャパオーバーです。縄文時代までの幅があるだろうことは知っていましたが、5億年前…、日本最古の地層って……。
途方にくれながらも、「最強のパワースポット」と呼ばれるのは、自然なことかもしれないな、と思いました。実際に歩いてみると、その力強さ、多様さは、けた外れです。そこへ来て、カンブリア紀ですもの。ひょっとしたら生物としての本能レベルで、引き寄せられてしまうのかも……。私もそのうちの一人ということなんでしょう。
今回の旅では、自分の課題をたくさん自覚してしまいました。仏教、神道、修験道はいうまでもありませんが、地質学も……。あああ、知りたいことがいくらでもあります。もっともっと勉強して、たくさん観て廻らないといけません!……こうして、文化系アウトドアな日々は、今日も明日も続いていくのです。
★本田不二雄氏と共著で書き下ろした『今を生きるための密教』(天夢人刊)が昨年12月に刊行されました。ぜひお手に取ってみてください!