※写真はすべて湯本貴和さんの撮影
1987年、ゴリラ調査隊のメンバーになる
コンゴ民主共和国は、アルジェリアに次いでアフリカ第2の面積を誇る国である。ほぼ中央に赤道がとおるコンゴ盆地の大部分を占め、西にコンゴ共和国、北に中央アフリカ共和国、南スーダン、南部はアンゴラ、ザンビアが位置している。東はヴィルンガ火山群やタンガニーカ湖を挟んで、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニアと国境を接する。
わたしがこの国に初めて足を踏み入れたのは1987年で、当時はザイールと呼ばれていた。ヒガシローランドゴリラの調査で、これまで単独でゴリラ研究をおこなっていた山極壽一さんが初めて調査隊を組んでザイールに挑んだ当初メンバーのひとりだった。
調査地は、東部キヴ州のカフジ=ビエガ国立公園。当時はパリで乗り継いで、ルワンダのキガリ、またはブルンジのブジュンブラを経由して、陸路でキヴ州ブカヴに入るルートをとるのが常だった。
首都キンシャサは油断も隙もない
1991年を最後に、内乱の始まったザイール調査を中断するまで、首都キンシャサに行ったのは一度きりであった。調査許可を得るために中央政府の所轄省庁に朝一番に出かけて担当官が来るのを待ち、「ああ、きょうも来なかったな」と夕方引き上げていた日々を思い出す。
当時もいまもコンゴ民主共和国は、多民族多言語国家である。250以上の民族集団に名前がつけられており、言語もほぼ同じだけ存在する。
公用語はフランス語、そのほかにスワヒリ語、リンガラ語、コンゴ語、ルバ語の4つが共通語として、民族間のコミュニケーションに使われている。4つの共通語はおもに話される地域が決まっていて、リンガラ語は中央部から北部、コンゴ語は西部、スワヒリ語は東部、ルバ語は南部に話者が多い。
国営テレビ放送では全国ニュースを5つのことばで繰り返すため、1時間のニュースでも内容は10分少々しかない。それでも国会関係のニュースでは、それぞれの言語に対応する地域から選出された議員の発言を放映する気配りはある。
東部のスワヒリ語圏で過ごしていたわたしにとって、リンガラ語圏の大キンシャサはまさに魔都であった。1991年当時でも380万人の人口を抱えたキンシャサは、公共サービスがほとんどなかった。
交通や金融も油断も隙もないし、警察官でさえ誰の味方かさっぱりわからなかった。スワヒリ語は、ほとんど通じなかった。頼れるのは友人関係だけだ。
幸いに山極さんや他の研究者が信頼できる人脈を築いてくれていたおかげで、わたしはあまり危ない目に遭ったことはなかった。だが信用できる知り合いがいなければ、空港から市内に行くまでに身包み剥がれても不思議ではなかったろう。そのため、街中で撮影した写真はない。
2012年、再訪したキンシャサでコンゴ料理を食べ歩く
およそ20年の空白の後、次にキンシャサを訪れたのは2012年8月。ヒトにいちばん近いといわれる類人猿・ボノボの調査のためである。
キンシャサの人口は950万人に膨れ上がっていた。政変があったこともあって市内は見違えるほどであったが、油断も隙もない街だと覚悟して行動するに越したことはない。
さすがに市場で写真を撮る勇気まではなかったが、街の名物である屋台のニャマ・チョマ(ヤギの炭火焼き、スワヒリ語)ぐらいは写真に収めることができた。
コンゴ料理といえば、リボケである。リボケとは、葉に包んだ「包み」のことだ。料理でいえば、肉や魚などをトマトやタマネギ、そしてニンニクなどの香味野菜と一緒にバナナやクズウコンの葉に包んで蒸し焼きした「包み焼き」である。
もともとは鍋などなくても、焚火のなかにそのまま置いて調理したものだ。おもにはコンゴ川の川魚が使われることが多いが、アンテロープなどの野生獣肉を使うことも多い。またヤシ油を使って揚げ煮にしたシチューも主な料理だ。このときはアフリカニシキヘビ(Python sebae)のシチューを食べた。
コンゴ人は誰でもヘビを食べるというわけではなく、キンシャサ滞在中ずっと世話になっている運転手が「ニョカ(ヘビ)!! ユモトは、ニョカを食べるんだ!」と大騒ぎしたのが笑えた。
ほかの名物は、コンゴ川に生息している淡水ザリガニである。コサコサと呼ばれていて、トマト味の料理法もあるが、ニンニク、塩、コショウでシンプルに味付けしたものが実にうまい。